人生とジェンダーと正義に揺れる

心の奥底に眠っている「違和感」を記してみることにした

言語そのものがはらむ差別性について

ずっと妙だなと感じていたことを書いてみてもいいだろうか。

それは日本語がはらむ差別的な言い回しについて。

あくまでも自分が感じ取った微妙なニュアンスであって、
国や文化、ましてや誰かを否定したい訳ではない。

だが、大人になっても尚疑問が消えない「言葉」たちについて書いていこうと思う。

そもそも差別用語はたくさん存在する

そもそも人を傷つけようと思えば簡単に傷つけられる差別ワードは腐る程ある。
英語だったら「ne*ro」など人種を丸ごと分類し分け隔てるような言葉があるし
日本語では「落ちこぼれ」とか「女々しい」とか特定の人を分類したり、
否定するために形容する差別的な言葉がたくさん存在している。

が、

「そういう」言葉はもちろん使わないというのが大原則な上で、
今回は「そうじゃない」自然と使われてしまっている差別的な表現について書いていきたい。

「男性は働いておらず」「女性は妊娠しておらず」

これらは昔よくニュースで流れていたフレーズ。

男は仕事してなんぼ、女は子供を宿し育てるのが普通。
これは勝手に性別に役割をつけて、該当しないものを辱めるという
一種の村八分のような言い回しだと子供ながらに自分は感じていた。

現在はこういったフレーズは改められているが、
一時でも国中のデバイスで浸透していたことから
「差別」的な事象を自然と受け入れてしまう意識が
日本人の根幹に根付いてしまっているのかもしれない。

他にもある。

「主人」「旦那」「嫁」「奥さん」

さて、自分は結婚を機にパートナーのことを何と呼んだら良いのか迷いに迷った。
何故なら、「主人」「旦那」「嫁」「奥さん」どの言葉にも不平等な意味合いが込められているから。

例えば

電話の相手に「主人に聞いてみないとわかりません」と言ったとする
「妻」はその家の家政婦なのか、「夫」は家で威張り、独裁政権を敷いているのか?
よくよく考えてみると、そんなことを思われても仕方がない言い回しではないだろうか。

もちろんそうではないことはわかっている。わかっているのだが… 双方にとってメリットがあるようには思えない。むしろデメリットになりはしないだろうか。

違和感を感じる言葉について考え直す

何気なく話す日本語の中で、
自分の性・年齢・家庭・職業・外見などの様々な一面が
不平等に貶められているように感じる言葉は多い。

それを問題なく使用する人もいれば、不本意だが便利だからと使う人もいる。
どうしても嫌だから使わないという人もいるだろう。

感覚は人ぞれぞれの個性であり、冒頭でも述べたように否定したい訳ではない。

ただ、今一度言葉と向き合うことで、新たに見えてくるものもあるのではないかと感じる。

自分はこれからも敏感に言葉の持つニュアンスを感じながら、
使いたいものと使いたくないものを選別していくつもりだ。